原点とこれから

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原点とこれから
原点とこれから

 

 

創業への道のり
第53回日本大腸肛門病学会学術集会 前夜(福岡にて)

第53回日本大腸肛門病学会学術集会 前夜(福岡にて)
前列左端:琉球大学 武藤教授、中央:隅越幸男先生(社会保険中央総合病院)
右:消痔霊を発明した史兆岐先生、横浜市立大名誉教授 土屋周二先生
(所属・役職は1998年当時)

沖縄に新しい産業を興したい

当社代表取締役の奥キヌ子は沖縄県糸満市育ち。女性が働き者で、照屋敏子、金城カネ、金城ナツコ等の女傑を多く輩出した土地柄の影響を受けながら、戦後の沖縄が米軍統治下で復興へと立ち上がる時勢の中に育ちました。生活物資の殆どは米軍からの流通品、収入は基地に依存するという特異な経済構造に憂いながら、「沖縄ならではの産業を興したい」と強く思うようになります。琉球大学在学中に語学留学先である台湾の、緑豊かで地産自立を実現している姿に大いに刺激を受けた体験が後の転機となりました。

大学卒業後、沖縄を緑豊かにすること、サトウキビ以外に産業となる基幹植物を求める目的もあり、マンゴー、レイシ、ヤシの木など亜熱帯植物の輸入販売を手がけました。約3年間続けながら、産業として農業を発展させるには広大な農地と資金の必要性を痛感するも、結婚、子育てが重なり事業を中断。再開後は農地確保の資金作りのため那覇市で飲食店を開業します。

輸入業も飲食店経営も知識は全くないゼロからの出発でしたが、無我夢中で取組みます。店は5年間で倍々に拡張し、優良納税者として県知事表彰を頂くほどに成長します。そこで運命的な出会いがありました。

「大学時代の先輩が中国から持ち帰ってきた痔の薬“消痔霊”を見せてくれました。内痔核を切らずに治療するという説明を聞いた瞬間、これだ!とひらめきました」

輸入業で沖縄経済のネックともいえる物流コストの高さを痛感していた奥。コストが低く、競争力があり、かつ付加価値が高い医薬品の可能性に着目しました。早速北京へ飛び、実際に薬の効果を目の当たりにしたことで確信を深め、発明者の史兆岐教授から日本をはじめ中国以外の国々での開発権を取得しました。帰国後、知人の紹介を得て、横浜市立大 土屋周二教授、社会保険中央総合病院 隅越幸男先生をお訪ねしたのが、日本での開発の第一歩となりました。

第53回日本大腸肛門病学会学術集会 前夜(福岡にて)

第53回日本大腸肛門病学会学術集会 前夜(福岡にて)
前列左端:琉球大学 武藤教授、中央:隅越幸男先生(社会保険中央総合病院)
右:消痔霊を発明した史兆岐先生、横浜市立大名誉教授 土屋周二先生
(所属・役職は1998年当時)

 

日本初、沖縄初の新薬許可第一号に
中薬研 設立メンバー

中薬研 設立メンバー
左端から:津波、山田、国場、奥、宋 右端:城間

自ら試験管を振って開発に取り組む

奥は1991年、痔を治療する医薬品研究開発のため、仲間とともにレキオファーマの前身である株式会社中薬研を設立しました。

通常、薬が認可され、実際に製品化されるまでには基礎研究、非臨床試験から臨床試験まで約15年の月日が必要になります。痔の治療薬開発がまったくのゼロからのスタートでなかったのは幸いでした。しかし、沖縄に持ち帰った消痔霊には時間がたつと沈殿物が生じる問題があり、日本の医薬品としては安定性に欠けるものでした。奥はあきらめず、沈殿物解明のため専門家にアドバイスを求め、夜は飲食店を経営しつつ昼は自ら試験管を振って地道にデータを取り、研究を続けました。その甲斐あって問題点と解決策を見つけることができました。それにより日本国内含め17カ国での特許取得となりました。

その後の開発は資金繰りとの戦いでした。医薬品として承認されるには、安全性・毒性・薬理といった動物実験、臨床試験などいくつもの関門を通過しなければなりません。動物実験だけでも年間数千万円から億単位の資金が必要となりました。奥は振り返って話します。「医薬品開発に無知であったからこそ、開発に踏み出せた。こんなに大変だと知っていたらやらなかった。」

日本初、中薬研 設立メンバー

中薬研 設立メンバー
左端から:津波、山田、国場、奥、宋 右端:城間

 

 

ジオン発売記念パーティ
ジオン発売記念パーティ 2005年、那覇市ロワジールホテルにて。
左端から:三菱ウェルファーマ(現 田辺三菱製薬)社長 小峰健嗣氏、
沖縄県知事 稲嶺恵一氏、那覇市長翁長雄志氏
(所属・役職は2005年当時)

2004年ジャパンベンチャーアワード
2004年ジャパンベンチャーアワード 経済産業大臣賞受賞

ウーマン・オブ・ザ・イヤー2006表彰式

日本初の快挙へ

このまま開発を継続し、厚生労働省に製造承認の申請を行うまでには、長い年月、組織力、莫大な費用がかかるため、自社だけでは難しいと判断。ノウハウを持つ共同開発パートナーを探すことになりました。その後、吉富製薬様(現・田辺三菱製薬株式会社)に共同開発者として参画していただき、2004年に「ジオン注」(内痔核硬化療法剤)の製造承認を取得、薬価収載、翌2005年3月、販売開始となりました。

私共は、沖縄初の創薬ベンチャーとして設立し、日本の創薬ベンチャーとしては初めて新薬を世に出した会社です。

新医薬品「ジオン注」とは

現代では日本人の3人に1人が痔に悩むと言われていますが、重症化した痔核の治療は切除手術が主でした。直腸側にできた痔核を内痔核と呼びますが、ジオン注は内痔核の患部に注射し、痔核を硬化、退縮させる薬です。いわゆる保存療法と呼ばれるもので、治療後の痛みも少なく、最短で日帰りもできるなど、患者様の負担を大幅に軽減し、Quality of Lifeの向上につながりました。現在、「ジオン注」は多くの病院に導入されており、内痔核硬化療法、ALTA(アルタ)療法として普及しています。

ジオン発売記念パーティ
ジオン発売記念パーティ 2005年、那覇市ロワジールホテルにて。
左端から三菱ウェルファーマ(現 田辺三菱製薬) 社長 小峰健嗣氏、沖縄県知事 稲嶺恵一氏、那覇市長翁長雄志氏(所属・役職は2005年当時)

2004年ジャパンベンチャーアワード
2004年ジャパンベンチャーアワード 経済産業大臣賞受賞

ウーマン・オブ・ザ・イヤー2006表彰式

 

さらなる飛躍と成長
地域産業資源活用事業(国の補助金)の認定式

地域産業資源活用事業(国の補助金)の認定式

左:ウコン講演会 右:研究風景

左:ウコン講演会 右:研究風景

新しい医薬品を求めて

「ジオン注」開発に成功した奥は、沖縄に古くから伝わる医食同源の考えにならって、ウコンやパパイヤ等の沖縄の植物に注目。医薬品の新規シーズの探索や病気の予防につながる製品開発を目指しました。そのうちのひとつがウコンです。ウコンの有効成分 クルクミンの効能に注目し、認知症予防対策の研究に取組みます。

2008年、健康食品産業へ参入。第一号製品「レキオのウコン」発売。これに先駆け市民セミナーを開催しクルクミンが認知症に有効とする論文を紹介するなど、認知症予防を視野に入れたプロモーション活動を行いました。これが後に「メモリン」へとつながります。

この他、2007年 沖縄県産業振興公社の『沖縄イノベーション創出事業』に、当社研究プロジェクト「ベニバナボロギク抽出物の新規薬効の開拓および機能性成分の研究開発」が採択され、助成金交付が決定します。2010年には体質改善を手助けする第二号製品「乳酸醗酵パパイヤゼリー」を発売しています。

地域産業資源活用事業(国の補助金)の認定式

地域産業資源活用事業(国の補助金)の認定式

左:ウコン講演会 右:研究風景

左:ウコン講演会 右:研究風景

 

 
いつまでも健康で自分らしく生きるために

いつまでも健康で自分らしく生きるために

認知症は、記憶障害に伴い判断力、理解力、適応力など認知機能が障害されることで、一人では生活が困難になっていく脳の病気です。しかし予防できることが分かってきました。また、認知症になったとしても、正しい知識と情報を共有し、家庭、職場、地域の理解と支えで共に生きていくことが可能なのです。

2013年、認知症予防研究の成果である、健康補助食品「メモリン」を発売しました。奥が認知症をテーマとした理由に、誰もが自分らしく生きてほしいという願いがあります。

長寿社会の大きな課題である認知症のリスクは、まさにこの長寿です。誰もが当事者となる可能性がある、特別な病ではありません。周囲の理解と支えで認知症を受入れることは、もちろん地域の体制として必要なことですが、支える周囲の人々もまた認知症となりえるのです。長い人生の中でなるべく脳の健康を保ち、主体的に社会参加をしていくことは、今や社会的な要請と言えるでしょう。

“人生100までの覚悟” いつまでも自分らしく生きていきたいという願いに応えてまいります。

いつまでも健康で自分らしく生きるために

 

更なる構想へ

更なる構想へ

これまでの年齢観に囚われない、新しい「大人の文化」を提案していきたいです。

現在、定年後の世代は社会の牽引役として大きな存在感となっています。この大人世代は会社をリタイヤしても、社会をリタイヤすることなく、パワフルな活躍を続ける方も少なくありません。従来の、社会的弱者・年金の受益者という見方を転換し、まだまだ社会に貢献してくださる先輩として、大いに経験や職能を活かしてもらう機会を作りたいと思います。定年後も“人生これから(ナマカラルドー)”の気概で、積極的に社会参画し人生を謳歌したい-そんな大人世代を応援したいと考えています。

あらゆる世代が未来への希望を持ちチャレンジ出来る、長生きが幸せなことと実感できるような、新しい取組みが出来れば、様々な社会課題も複合的に解決できると思います。

基地に依存しない経済、新たな産業を起こし沖縄を豊かにすることを目指し、ひたすらに走ってきました。一方で1990年、沖縄を題材にしたミュージカル「マサリー」を制作するなど文化支援も行っています。「豊かさ」を考えたとき、経済と文化・芸術の成熟は車の両輪のようなものです。新薬開発とミュージカル制作に共通するのは「沖縄の地の利や素材を生かした産業や文化をつくってこそ、沖縄の本当の豊かさにつながる」という思いです。

付加価値の高い製品を開発し沖縄から世界へ発信する。これが変わらぬ私のテーマです。競争力のあるものを生みだすことが沖縄経済の自立を促し、雇用を生み、さらなるステージへ繋がると考えております。

時代に翻弄され続ける沖縄ですが、かつては「琉球王国」と名乗り、小さいながらも独立国として、武器を持たず、中国・アジアの国々と広く交易し隆盛を極めておりました。その先人達が目指した理想をたゆまず追いかけ、追い越すことが今を生きる私達の役目なのです。